どうも、八浪経験者のあさひです。

僕が大学生になって気づいたことの一つに、社会には意外に多浪・多留経験者がいるということが挙げられます。実際、僕の周りには遠回りして大学に入った人や留年経験者が何人かいます。32歳で大学に入ったN君とか、22歳で入学したMちゃんとか…(誰やねん)。
そこで、ふと「有名人などにも多浪・多留した人はいるのでは?」と思い調べてみると、意外に?それともやっぱり?有名人にも多浪・多留経験者はたくさんいました!
というわけで、今日は多浪・多留経験者のある有名人について書いていきます。
Contents
小泉純一郎 一浪一留→慶應義塾大学経済学部卒
日本の総理大臣にまで登り詰め、日本に小泉旋風を巻き起こした小泉純一郎も浪人・留年経験者です。

小宮山悟 二浪→早稲田大学教育学部
千葉ロッテマリーンズや横浜ベイスターズ等で活躍した元プロ野球選手の小宮山悟さんは、二浪して早稲田大学教育学部に入学した経歴を持ちます。
プロ野球に入る実力があるのですから、てっきりスポーツ推薦で入学していたのかと思っていましたが、代々木ゼミナールで必死に勉強していたということです。
スポーツ推薦の是非が問われている昨今、小宮山悟さんのように文武両道を成し遂げている選手はみんなのお手本になるという意味で非常に貴重な経歴を持っているといえるでしょう。

村上龍 二浪→武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科中退
村上龍さんは、ロックバンド「LUNA SEA」にも強い影響を与えた小説『限りなく透明に近いブルー』が有名な小説家です。
村上龍さんは、『限りなく透明に近いブルー』を在学中に執筆したということで、若いころから優れた才能に恵まれていたようです。
二浪して入学したムサビを中退後は、小説家としてだけでなく、多岐に渡る活動をしています。

大泉洋 二浪→北海学園大学経済学部卒
大泉洋さんといえば『水曜どうでしょう』で全国区の知名度を得た人気俳優さんですね。
大泉洋さんは大学入学時、北海学園大が第一志望ではなかったということで落ち込んでいたそうです。しかし、「このまま腐っていたらまずい」ということで演劇研究会に入りました。
もともと不本意な形で入学した大学のサークル活動をきっかけに花開いたというのは夢のある話ですね。
ちなみに、大泉洋さんが二浪して入学した「北海学園大学」は、道外に住んでいるとなかなか耳にしないかもしれません。しかし、道内の私立大学ではトップクラスのブランドを誇る名門私大です。
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井上陽水 三浪するも進学せず
歯科医師の父親に育てられた井上陽水さんは、家業を継ぐため九州歯科大学を受験するも失敗します。
その後、三浪しながら受験勉強を続けるも合格することができず、結局は大学進学を諦めることになります。
とはいえ、大学受験の挫折が、彼の歌手活動を花開かせたことは間違いないでしょう。もし、彼が大学受験に成功していたら、歌手としてたくさんの名曲を生み出すことはなかったでしょう。
探すのをやめた時
見つかる事もよくある話で ※井上陽水『夢の中へ』から抜粋
歯科医師という夢を諦めた時、彼は歌手という夢を見つけ、叶えたのです。
彼の人生から学べること、それは大学受験は人生の通過点にすぎないということではないでしょうか。
なにかにチャレンジして失敗したとしても、決して腐ることなく生きていけば、いつか大きく花を咲かすことができる…井上陽水の生きざまから、そんなポジティブなメッセージを感じるのは僕だけでしょうか。

槇原敬之 三浪→青山学院大学文学部第二部英米文学科中退
槇原敬之さんは、高校生のころから音楽活動をし、二浪時には既にプロデビューを果たしていました。しかし、ご両親が大学進学を希望していたので仕方なく大学受験に挑戦したという経緯があります。
1991年の槇原敬之さんのヒット作『どんなときも』は、「大学受験がどのような結果になっても、僕は僕らしく」という自分自身へのメッセージが込められた応援歌となっています。

さて、めでたく青山学院大学に合格した槇原敬之さんですが、最終的には中退して音楽の道へ進むことになります。
とはいえ、大学受験をきっかけに作られた曲が彼の知名度を大きく広めたという意味では、彼の人生において浪人生活は大きな意味を持ったのではないでしょうか。
吉村作治 三浪→早稲田大学第一文学部
吉村作治は考古学者として有名な方ですね。
彼はもともと学者を目指すため東京大学を目指していたのですが、三浪目に早稲田大学に入学を決意しました。
早稲田大学入学後にエジプト考古学を学べる場がないと知るや、川村喜一教授に直談判し、自ら率先しエジプト研究会を設立しました。凄い行動力ですね。
大学三年生の時には、日本人として初めてのエジプト現地調査となるジェネラル・サーベイ(踏査)を実現します。
その後も、彼はエジプト考古学の研究に従事し、第18王朝のファラオ、アメンヘテプ3世の祭殿「魚の丘遺跡」の一部などを発掘することに成功します。
彼の東大への執念は凄かったと思いますが、それ以上に早稲田大学で学問に没頭する彼の熱意に圧倒されるのは僕だけではないでしょう。
東大受験という挫折を乗り越え、世界的な偉業を成し遂げた彼の姿勢には学ぶことが多くありそうです。

村上春樹 三留→早稲田大学第一文学部卒
毎年ノーベル文学賞の候補に挙がる村上春樹氏は多留経験者です。
大学にはほとんど行かず、昼は新宿のレコード屋でアルバイトとして働き、夜は歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸っていたとか。
また、彼は学生結婚しており、国分寺駅の近くにジャズ喫茶を開業しております。なんだか昔の典型的な早大生といった感じです。
留年時代、彼が明治神宮球場で野球観戦をしている時に小説を書くことを思いついたのは、あまりにも有名な話です。
自由気ままな留年生活があったからこそ、彼は小説家として大成したのではないでしょうか。

米村でんじろう 三浪→東京学芸大学
米村でんじろう氏の経歴は波乱に満ちています。
高校3年生の時に、父親が職場の工場で事故死したこともあって、授業料の安い国立大学を志望して受験したが、失敗した。
浪人生活2年目、母親が見かねて「働いてみたらどうか」と勧め、6月から8月まで工場で40代から50代の労働者たちにまざって働いた。
また9月から予備校に通うが、講義についていけずにやめた。3年目、母親に頼るのがつらくなり、新聞奨学生の募集を見て、面接を受けたが断られたこともあった。
牛乳配達のアルバイトをしながら、3年目の宅浪をつづけ、1976年に東京学芸大学理科B類(物理)に合格、入学した。 引用:Wikipedia
「でんじろう」という可愛らしい名前からは想像できないほど苦労していることがわかります。米村でんじろう氏の浪人生活は、実家でぬるま湯に浸りながら勉強していた僕とは大違いですね。
今のでんじろう氏の活き活きした姿をみると、大学受験の挫折は必ずしもマイナスに働かず、むしろプラスに働くことすらあるのではないかという思いを抱かせてくれます。
ロザン宇治原 9留(休学含む)→京都大学卒
ロザンの宇治原さんは、京都大学出身のお笑い芸人として有名です。
とはいえ、ロザンの宇治原さんは、京都大学を卒業するのに9留もしています。9留なんて、予測変換でもでてきません。
なぜ、ロザンの宇治原さんは、京都大学の卒業までに9留もしたのでしょうか?
実は、お笑いコンビ「ロザン」は、宇治原さんの京都大学在学時に結成されました。つまり、ロザン結成時、宇治原さんは「現役京都大学生」という超エリートな看板を掲げることになるのです。
しかし、宇治原さんが京都大学を卒業してしまうと、「現役京都大学生」という肩書きを名乗れなくなってしまいます。そこで、宇治原さんは、「現役京都大学生」の肩書きを名乗るため、あえて留年・休学していたのです。
結果として、1995年に入学した宇治原は2004年に京都大学を卒業することとなりました。
多浪・多留生は負けるな!
さて、いままで多浪・多留してきた有名人の方たちを見てきましたが、いかがでしたでしょうか。

僕の経験上、大学生という社会への入り口手前でつまづくことは、本当に辛く、時に社会を恨んだり、自己嫌悪に陥ってしまうこともありました。
しかし、多浪・多留でも腐らずに頑張れば、彼らのように才能を花咲かすことができるのではないでしょうか。もちろん、「どうせ俺なんか…」と腐るのは個人の自由ではありますが。
もしも、「よし!俺も頑張ろう!」と思える多浪・多留生の方がいたら、是非頑張ってください。僕も多浪生として一生懸命頑張ります!